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讀史余情

書紀・続紀など読みながら古代史に遊ぶ

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  1. 2011/11/08(火) 22:18:06|
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秋篠という土地

癸夘。
少内記正八位上土師宿祢安人等言。
臣等遠祖野見宿祢。造作物象。以代殉人。垂裕後昆。生民頼之。
而其後子孫。動預凶儀。尋念祖業。意不在茲。
是以土師宿祢古人等。前年因居地名。改姓菅原。
當時安人任在遠國。不及預例。
望請。土師之字改爲秋篠。
詔許之。
於是。安人兄弟男女六人賜姓秋篠。


延暦元年(七八二)五月 癸夘(廿一日)。
少内記 正八位上 土師宿祢安人らの 言上するに(曰く)
臣等が遠祖 野見宿祢、物象を造作し、以って殉人に代う。裕ろく後に昆を垂れ、生民之を頼る。
而るに其の後は子孫 動やく凶儀に預れり。尋く祖業を念えば 意は茲に不在るなり。
是を以って 土師宿祢 古人ら  前つ年 居地の名に因って姓を菅原と改めき。
當時 安人 任じて遠國に在り。預例に不及りき。
望み請うらくは。土師之字を改めて秋篠と爲さん、と。
詔して之を許す。
是に 安人 兄弟 男女 六人に秋篠の姓を賜う。

桓武の時代が始まったころ。
土師宿祢古人ら同氏族の者に遅れて安人は改姓を願い出て許された。
土師氏はここに居住地をもとに名乗った菅原と秋篠に別れた。
といっても奈良市にある秋篠の地と菅原の地はほとんど同じ地である。
隣接というより同一と言っていいくらいだ。
そのことは同一の地域に暮らす同じ氏族の分岐が既成事実だったことを示すように思われる。
安人は菅原という姓でもよい筈だろうから。しかし敢えて秋篠姓を願った。
ここに「家」の独立があるのだろう。そこにその「家」の政治的・経済的等の差異がもたらす分岐がみえる。

任地が離れていて「預例に及ばざりき」は口実の類であろう。
古人たちの家が猟姓運動に成功したとき彼の家は置き去りになった。
というより同姓の古人たちから別扱いされていたのであろう。
確かに任地遠国であれば運動に参加は出来かねたのは確かだとしても。

ここに表れているもう一つの問題は
土師氏という呼称が負のベクトルを帯びるものに変わってしまったことである。
もともと古墳の造営にかかわることは光栄に満ちた家業であったはずであり
それが野見宿祢の伝承とともに土師氏の存在を支えてきた。
しかし王権の継承に関わる重大な事業としての墳丘造営の意義が失われ
律令制の下で土師氏の家業は葬送を凶事とする思想に取り囲まれてしまっていた。
祖先の功業をひそかに誇りつつも家業はすでに技術官から文官へと変わっていた。
改姓の時機はとうに来ていたが、なかなか実現しなかったのであろう。

現在の秋篠の地名が賜姓により生じたかというとそうではないだろう。
宝亀十一年六月戊戌(五日)に秋篠寺の名が続日本紀にある以上、その土地の名を姓としたと考えるべきだから。

秋篠寺は林に囲まれたような静かな寺である。
秋篠宮も自らの呼称の由来を尋ねて来訪している。
伎芸天の周りに漂う視えない音楽を感じられる立ち位置を
探して見つけた日を懐かしく思い出す。
  1. 2011/11/08(火) 22:04:00|
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蝦夷地域の統合へのステップ

文武元年(六九七)十月壬午《甲子朔十九》  
冬十月壬午。陸奥蝦夷貢方物。

陸奥の蝦夷、方物を貢す。

文武元年(六九七)十二月庚辰《癸亥朔十八》 
十二月庚辰。賜越後蝦狄物。各有差。

越後の蝦狄に物を賜うこと、各々差有り。

文武二年(六九八)六月壬寅《十四》     
壬寅。越後國蝦狄獻方物。

越後國の蝦狄、方物を献ず。

文武二年(六九八)十月己酉《廿三》     
己酉。陸奥蝦夷獻方物。

陸奥の蝦夷、方物を獻ず。

文武三年(六九九)四月己酉《乙酉朔廿五》
夏四月己酉。越後蝦狄一百六人賜爵有差。
越後の蝦狄一百六人に爵を賜うこと差有り。


和銅三年(七一〇)正月丁夘《十六》
丁夘。天皇御重閣門。賜宴文武百官并隼人蝦夷。
奏諸方樂。從五位已上賜衣一襲。
隼人蝦夷等亦授位賜祿。各有差。

天皇、重閣門に御して、文武百官并びに隼人、蝦夷に宴を賜う。
諸々の方樂を奏す。
從五位已上に衣一襲を賜う。



和銅三年(七一〇)四月辛丑《廿一》
辛丑。陸奥蝦夷等請賜君姓同於編戸。許之。

陸奥の蝦夷等、君姓を賜わり編戸を同にせんことを請う。之を許す。

天平宝字元年(七五七)三月乙亥《廿七》
乙亥。勅。自今以後。改藤原部姓。爲久須波良部。君子部爲吉美侯部。

勅。今自り以後、藤原部の姓を改めて久須波良部と爲し、君子部は吉美侯部と爲す。


神亀元年(七二四)二月壬子《廿二》
壬子。天皇臨軒。授正四位下六人部王正四位上。
(中略)從七位下大伴直南淵麻呂。從八位下錦部安麻呂。无位烏安麻呂。外從七位上角山君内麻呂。外從八位下大伴直國持。外正八位上壬生直國依。外正八位下日下部使主荒熊。外從七位上香取連五百嶋。外正八位下大生部直三穗麻呂。外從八位上君子部立花。外正八位上史部虫麻呂。外從八位上大伴直宮足等。獻私穀於陸奧國鎭所。並授外從五位下



  1. 2011/10/14(金) 23:04:23|
  2. 蝦夷
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  1. 2011/10/13(木) 11:08:29|
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白猪屯倉と白猪史胆津 船史王辰爾の周辺

三年冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。
戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。

遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。


記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
これを記録としてでなく伝承としてとらえれば、
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。
増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
計測と記帳による農産管理。マネジメントが導入されたのであり、文字の役割が拡大されたことでもある。
土木治水のことも含まれていよう。

白猪屯倉のもつ意味は政治的経済的軍事的拠点であろうが、そこを帰化人技術官僚を握った新興の蘇我氏が掌握したことをも示しているのだろうか。

この記事は大阪平野の河内との関連でもまた出てくるはずだ、記憶違いでなければ。

同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔して、船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。

賜姓は事実かどうかは不明だが、「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得たことは上記の白猪史と並び文書を軸にマネジメントする事務が必須とされる状況を示しているだろう。
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。

白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。

王辰爾については有名な伝承がある。
敏達元年夏五月紀
丙 辰 天皇執高麗表疏 授於大臣 召聚諸史令読解之 是時諸史於三日内皆不能読 爰有船史祖王辰爾 能奉読釈 由是 天皇与大臣倶為讃美曰 勤乎辰爾 懿哉 辰爾 汝若不愛於学誰 能読解 宜従今始近侍殿中 既而詔東西諸史曰 汝等所習之業何故不就汝等雖衆不及辰爾 又高麗上表疏書于烏羽 字随羽黒既無識者 辰爾乃蒸羽於飯気以帛印 羽 悉写其字 朝庭悉之異
  1. 2011/09/27(火) 12:18:53|
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毎週、『日本書紀と続日本紀を読む会』へ通うのが楽しみな晩学の書生のBlogです。

読む会は毎週月曜日
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奈良県経済倶楽部ビル4階にて
講師
奈良大学名誉教授 水野柳太郎先生
 

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